中国密教における不空三蔵の意義
西暦二世紀頃になると西域地方から仏教の僧侶が次々とやってきて、仏典の翻訳事業などを始め、西域地方に伝播した仏教が中国に移入されるようになった。もともと中央アジアにはシャーマニスティックな呪術信仰があったので、西域地方出身の僧侶によってインドの呪術的な大乗仏教経典が数多く翻訳されたことは当然の流れであったと思われる。このことに加えて、中国[i]後漢の時代には陰陽五行説・籤緯説・神仙術・方術・鬼神信仰などが流行しており、仏教の呪術的・儀礼的な要素を受け入れる社会基盤が整っていたことも中国の密教受容の大きな要素になったであろう。
さて、中国において密教が受容された時代を三期に区分してみると、東晋から盛唐まで(二二〇〜七〇〇)の初期中国密教の時代、中唐から晩唐まで(七〇〇〜九〇〇)の中期中国密教の時代、そして五代・北宋以後(九〇〇〜)の後期中国密教の時代とに区分することができる。なお、この中国密教でも、『大日経』や『金剛頂経』などを拠りどころとする中期密教が、その後の中国における思想、美術、儀礼に大きな影響を及ぼしていることは見落とせない。インドやチベットでの密教が形而上的世界を重視するのに対して、中国では可視的な世界の価値観が優先され、国家の統制と管理のもと「護国仏教」として展開したゆえに、インドや後の日本で宗派が形成されたのとは異なり、中国の仏教は一般大衆の支持基盤を持った宗派仏教としての形態をとることはなかった。
八世紀初頭、『大日経』と『金剛頂経』をそれぞれ中国に請来した善無畏と金剛智によって上層階級に紹介された密教であるが、それらがさらに広く一般大衆にまで浸透するには一行禅師と不空三蔵の二人の登場を待たねばならなかった。一行禅師は善無畏の訳した大日経の教えを定着させ、なお注釈書である『大日経疏』等を著し、広い学識と卓越した才能を有し、暦を編纂するなど学者としての活動が多かったが、布教活動という面では不空三蔵とは好対照をなしていた。
[ii]「静」の一行に対して「動」の特徴を生涯もって表したのが不空三蔵である。不空三蔵は北インド系の父親と中央アジア系の母親のもと西域で生まれ、幼くして両親を失い十三歳のときに長安にやってきた。出家希望であったので金剛智のもとに弟子入りして密教を伝法された。[iii]後にインド・スリランカに渡り、現地の普賢阿闍梨から最新の密教を受法するとともに膨大な経典を収集して七四六年に長安に還京している。それ以降、積極的に密教の布教活動をはじめ、玄宗皇帝に灌頂を授けるなどしているが、七四九年から四年間、不空三蔵は、理由は明確でないが一時長安を離れ広州に止住して不遇なときを過ごしている。しかし七五四年、その不遇の状況が一変する。当時最大の軍閥であった哥舒翰によって不空三蔵は河西に招請され哥舒翰はその後援者となったのである。この出会いが、不空三蔵の以後の活躍に大きな影響を与えることになった。事実、哥舒翰をはじめ数千人の人々に灌頂を授けており、七五五年の安禄山の反乱が起こると不空三蔵は長安の大興善寺に入り、命がけで皇帝の守護と護国のための修法を行って信頼を高め出世してゆくのである。この時期、不空三蔵は六十一歳頃で絶頂期にあり、皇帝守護・国家安穏の修法を幾度も行い、数千人の僧俗の人々に灌頂を授けている。このように学者的な一行に対して、行動的・戦略的・俗世間的にも見える不空三蔵は[iv]玄宗・粛宗・代宗の三代に仕え、内乱・外寇の絶え間がなかった政情不安定の時勢にあって、よく除災招福・鎮護国家の修法をもって朝廷・貴族の信任を得て、密教を宣布した。不空三蔵は中国社会に密教を定着させた偉大なる人物であるが、七七四年ついに病に倒れ六月十五日大興善寺にて入寂した。
不空三蔵が中国密教に果たした業績は、一〇〇巻を超える経典の翻訳をはじめ、五台山に金閣寺を建立して文殊菩薩信仰の振興を図ったことなどが揚げられるが、とりわけ不空三蔵の中国密教における意義には、次のようなことがいえよう。
密教の呪術は用い方によっては正にも邪にもなる二面性を有している。つまり国家安穏、世情安定、病気平癒という面に寄与することもあれば、反面不安を煽って人心の不安・混乱をもたらすこともある。しかしながら、不空三蔵はこのような呪術の力を国家と国民の平和のために活用し、中国社会に密教を定着させたという業績は大きく評価されるべきであろう。
以上